オロシアおエイ

 "稲佐の女王"とも"ロシア海軍の母"ともいわれます。長崎市にある記念碑には、「長崎の三大女傑」のひとりと記してあります。
 彼女についての本もいくつか出され、『鶴の港 長崎異人館』と題し有馬稲子が主演した芝居は、このおエイの物語です。万延元年(1860)に天草に生まれ、12歳で村を出て、上海からシベリアのバイカル湖まで足跡を残したとされます。
 ロシアとの関係が深く、のちの皇帝ニコライ2世や、日露戦争の司令官クロパトキン、乃木大将と戦ったステッセルなど多くのエピソードが伝えられています。本名は道永エイ。



<原勇『女侠 長崎のお栄さん』より>

シベリアお菊

 この人についても多くの本や雑誌、新聞などで触れられているが、謎に包まれた部分も少なくありません。明治11年(1878)に山口県の、現在の熊毛郡に生まれ、17歳で朝鮮に渡り、以後満州やシベリアを転々としたようです。
 お菊が一躍有名になったのは、ロシア革命からシベリア出兵にかけての動乱の時期に、日本軍に協力しさまざまの功を立てたことによります。連隊長からは感謝状が、賞勲局総裁からは金80円が贈られています。ハルピン(哈爾浜)の日本人墓地で眠りに就きました。

満州お菊

 満州お菊とシベリアお菊は同一人物、という説を取る人もいるが、私は別の人物だろうと考えております。この人もミステリーの生涯です。天草に生まれ、7歳で朝鮮の料理屋に売られ、のちに大陸の各地を放浪し、シベリア出兵の際は日本軍ともかかわりがあったといいます。満州某重大事件の張作霖と義兄弟の馬賊を、処刑寸前に救ったことで馬賊に身を投じ、女の頭目として名が広まりました。お菊が発行する保票(通行手形)は最も信用があったそうです。
 病を得て、大正12年(1923)に39歳の短い生涯を、尼港事件のあったニコライエフスクに閉じたと伝えられています。人名辞典にも出ています。本名は山本菊子などとされているが、定かではありません。


○木下クニ

 天草出身。ボルネオ(今はカリマンタンという)のサンダカンに長く住み、財をなして日本人墓地を開いたりしました。世話好きで、ある本には「領事館がどこにあるか知らない人でもお国ばあさんは知らなければならない位に名高い」とあります。"南洋の女王"と称されたようです。一旗挙げて故郷に錦を飾りたかった人の多い時代だが、この人は、早くから異国に骨を埋める覚悟を決め実行しました。


<『ボルネオ研究』より>
○島木ヨシ

 明治19年(1886)天草の生まれ。19の時にからゆき渡世に踏み出し、上海やシンガポールなどをめぐります。インドのボンベイ(今のムンバイ)にも単身で乗り込み、"ジャパニーズマッサージ"を始めます。「日の丸ば胸におさめた民間外交じゃ」の気概で、ガンジーやネルー首相にも治療を施したといいます。天草に引き上げ、白無垢を着て自死したそうです。森崎和江が『からゆきさん』の中でくわしく記しています。

小松ケイ

 16歳の時に上海からスマトラ(インドネシア)へ。大きな会社を経営するオランダ人に見染められ、城のような豪邸の女主人となります。郷里の天草に家を建て、そのオランダ人も一緒に暮らしていたこともあるそうですが、畳の上を靴のままで歩いていたそうです。今もその家は残っており、姪に当たる方が管理しています。
 おケイの墓は、彼女が白いパラソルに白いドレス姿で帰郷してきた小さな港町を見下ろす、小高い丘の上にあります。おケイに話を聞いた人たちの文が、あれこれ残っています。


○山田わか

 横須賀市の久里浜に生まれ、18歳の人妻であったわかは女衒(ぜげん)にだまされ、イチローが活躍するマリナーズのあるシアトルへ売られます。明治29年頃と思われます。"アラビアお八重"の名で8年間稼がされます。
 救う人あって勉学を始め、のちに女流評論家として名が広まりました。娼婦の厚生施設を開いたりもしました。一つの奇跡に近いような足取りの人生でした。『あめゆきさんの歌』(山崎朋子)にくわしい。


 以上のほかにも、私の手もとにあるだけでも名前や消息の判明しているからゆきさんは100名を超えているが、今回はこれだけにしておきます。