Q1:いつのことなの?

 江戸時代の末から明治・大正、昭和の初め頃までの話です。



Q2:どんな仕事をしていたの?

 ほぼ世界中といっても大げさではない程、各国の娼館で働いていました。



Q3:なぜそんな仕事を?

 まず第一に貧困です。当時の日本は貧しい人が多く、カネをかせぐために娘たちが当てにされました。また、日本には室町時代から続く公娼制(女性を廓に閉じ込める管理売春)があり、親が娘を売って、受け取ったカネで生計を立てていく風景は珍しくなかったのです。国が、そういう権限を親に認めていました。家や親兄弟のために苦界に身を沈める娘は親孝行、と世間はみるのが普通でした。からゆきさんの場合は、かせぐ場所がたまたま国の外であったということです。



Q4:「からゆき」の意味は?

 唐行き、の漢字を当てます。からゆきさんを多く出した長崎県の島原地方、熊本県の天草地方などに語源があるようです。今は"唐天竺(からてんじく)"という言い方はあまり聞かなくなったが、かつての日本では、外国といったらひっくるめて唐(中国のこと)天竺(インドのこと)と呼んでいたので、外国に行くことは"唐行き"だったのです。ただ当時は"からゆきさん"という言い方はされず、醜業婦、賤業婦、密航婦、島原族、天草女などと新聞や本には出ています。娘子軍(じょうしぐん)と言われることもあります。(もともとは、女の軍隊の意味です)世界無宿、と呼ぶ人もいます。からゆきさんをもじって、"ジャパゆきさん"が生まれました。

南洋のからゆきさん
<長崎県口之津町の歴史民族資料館提供>





Q5:どこの県の人が多いの?

 全国各地から出たが、特に西日本に多く、海に面している地域に目立つようです。なかでも島原や天草からは沢山でていきました。このあたりは唐天竺(からてんじく)に向けて海が広がり、古(いにしえ)より唐人(とうじん)、南蛮人(なんばんじん)、紅毛人と異国からの船が行き来し、"異人歓待"の風が生まれてきたようです。海を渡ることをおそれない気風がうまれてきたのです。海は"終わり"ではなく、"始まり"にしたのです。距離的にも、東京へ出るより上海の方が近いぐらいなのです。
満州のからゆきさん
石光真清『曠野(こうや)の花』より>






Q6:自分の意思で出て行ったの、だまされて?

 番多いのは、だまされて売られたケースでしょう。女衒(ぜげん)とよばれた人商人(ひとあきんど)(人買い人売りを業とする者)に、「シンガッパ(シンガポールのこと)のホテル奉公は大きなゼニになるぜ」などと、ことば巧みにだまされたのです。そして外国の貨物船の船員などとグルになって、下関や門司、長崎や口之津、あるいは神戸、横浜や清水の港などから密航させたのです。それらにかかった費用と称して、当時の金でおよそ500円ぐらい、今でいうと500万円ぐらいを本人の借金とさせたのです。それを返すために、売られていった地でどうしても稼ぎをしなくてはならなかったのです。ちなみに、今も密入国や偽造のパスポートで日本へやってくるジャパゆきさん(男も含めて)たちは、同じ額ぐらいの手数料を払っているようです。
 次に、自分の意思で渡った人も少なくありません。同じ村の知り合いや親戚に連れ出されたり、大金を手にして着飾って帰ってくる成功したからゆきさんを目のあたりにして「あたしも――」と自分の一存で決める者もいました。ことに島原・天草でそういう話をききます。
 3つ目として、親が女衒(ぜげん)その他にカネをもらって売り渡したケースです。なかには7歳で売られた子もいるそうです。
洋装のからゆきさん



Q7:そんな境遇で絶望の日々を送っていたの?

 密航船の中や、売られていった先の娼館で、絶望のあまりか、みずから自分の生を断った人もずい分いたようです。しかしながら、ほとんどの娘たちは、「500万の借金が返せなかったら国もとの家族から払ってもらうからな」などとおどされ、カネを稼いで家に送らねばという現実を思いおこして、涙も枯れるほど泣いたあとは、娼売の世界に飛び込んでいかざるをえなかったのです。「もうここまで来てしまへば、捨て身の勇気とでも云(い)はうか、持てるものの凡(すべ)てを失った彼等が、運命に順応して行くその大膽(だいたん)ぶりは、到底男子の想像も及ばぬものがある」と、ある人は書き残しています。



Q8:世界の各国でどんな風に思われていたの?

 異国人相手の仕事だったので、異国人に語ってもらってみよう。「日本の女は従順で正直で親切だ。外人の女のように悪辣(あくらつ)な取引をしない」「日本娘は第一にあきらめが良く淡白だ。第二に金銭をむさぼらぬ。第三に盗心がない。第四に親切だ」と、ロシアの青年たちが石光真清(まきよ)に言ったそうです。陸軍の密偵だった真清(まきよ)は、日露裏面史の陰でひっそりと咲くからゆきさんを『曠野(こうや)の花』という本に描き、平成10年にはNHKでドラマ化もされました。
 同じ舞台のシベリアはブラゴヴェシチェンスクという町で、親日家として知られるチェーホフはからゆきさんと一夜を共にしました。「絶えず笑みを浮かべている。(略)笑いながら、口ずさみながら……」と知人への手紙にあります。作家が登場したのでもう一人、サマセット・モームの作品をみてみよう。『ニールマックアダム』はシンガポールが舞台です。ニホンムスメの描写があります。「目元にはにこやかな笑みが溢(あふ)れ、彼女らは部屋に入るとまず、低く頭を下げ、それから行儀良く鄭重(ていちょう)な挨拶の言葉を囁(ささや)いた」 実によく気が利いて、と書いています。
 ほんの数例だが、こういう話から受けるイメージは、貧しい家に生まれ、だまされて売り飛ばされた醜業婦――という連想とはちょっと違う部分もあるのではないでしょうか。
シベリアのからゆきさん



Q9:家族とは連絡がついていたの?

 家への仕送りができていた娘はもちろん消息がつかめていたが、ある日突然いなくなって、送金どころか生死さえ分からない娘も少なくなかったのです。またからゆきさんの多くは、貧しい家庭に育ち満足に小学校にも通えなかったので、読み書きができない、できてもひらがなとカタカナだけというケースが大半で、手紙のやりとりはむずかしいのが一般的でした。
 "中戻り"といって、ゆとりができてきたからゆきさんの中には、国を出てから10年後あるいは20年後に郷里に一度帰る者もおりました。家を修理し、墓を建て、小学校やお寺に寄付したりして、再び売られた先へ舞い戻っていくのでした。



Q10:外国のことばは話せたの?

 自分が売られていった先の国の言葉を覚えないと娼売にならないので、覚えようと努めたにちがいありません。13、4〜17、8歳ぐらいで売られた娘が多いので、わりと早くことばは身につけたようです。しかも、各地を転々とするケースも少なくなかったので、いろんな国や民族のことばに通ずる者もいました。太平洋戦争で日本軍が東南アジアの各地に攻め込んでいった際、老からゆきさんたちが通訳にかり出された話はあちこちに残っています。
 白人が娼館の前を通りかかると、「カミンサー」と声をかけました。"Come in,sir"のからゆきなまりです。そこから彼女たちは"カミンサー"というニックネームをもらいました。
カナダのからゆきさん
工藤美代子『カナダ遊妓楼に降る雪は』より>



Q11:どんな暮らしぶりだったの?

 娼館での日常生活は、基本的に日本と同じでした。食べるものも、着るものも可能な限り日本風でした。その要求にこたえるために、いろんな商売の男たちが次々に海を渡りました。"女の財産は着物"の時代だったので、呉服屋などは有卦(うけ)に入ったのです。
 明治の世になって、まず国を飛び出していったのがからゆきさん、それを追っかけて、おとこからゆきともいわれる男たちが一旗あげようと出て行ったのです。日清、日露の戦役のときの軍艦や大砲などの、少なくない部分がからゆきさんからの仕送りでまかなわれた、というのはあれこれの本にみかける説です。



Q12:で、本人たちは最後はどうなったの?

 私が各国に散らばる日本人墓地にあるからゆきさんの墓を調べて、一体いくつぐらいで亡くなったんだろうと平均寿命を出してみたら、21,6歳でした。これは昔風の”数え”の歳であって、今風の"満"の数え方でいくと20歳ぐらいになります。半分ははたちそこそこで死んでいってることになります。売られて4、5年でマラリアなどの風土病、性病、肺病、阿片などで若い命を散らしていったのです。故国の家族は命日を知ることもなかったでしょう。仕送りがこなくなると、何かあったのでは、と案じるだけだったでしょう。
 日本人墓地に墓を建ててもらったからゆきさんは、私の考えでは100人に1人、多くて2人ぐらいのものだったでしょう。ほとんどはそこいらで焼いて埋めるか、海や密林に放り投げるか、だったといいます。まだ息はあるのにワニのえさに売られた娘も少なくない、と語った人もいます。
 身請けされて、現地人や中国人、あるいは白人の妻となったり、セカンドワイフにおさまったりする者もたくさんいました。日本人同士で所帯をもった者もいました。
 太平洋戦争のはじまりと同時に日本に戻された者も多いのですが、戦中・戦後も異国にあって、誰知らずひっそりと世を去る老からゆきさんも多くいました。現在ではどの国にも、生存しているからゆきさんはいないと思われます。