○まえがき

 明治32年(1899)に広島県のある被差別部落に生まれた善道キクヨが、女衒(ぜげん)にだまされ、17歳で今のマレーシアに売られ、娼館で3年間働かされます。のちにシンガポールで自由働きをしたあと、インド人と結婚、義理の息子を医者にするのに苦労したりします。昭和48年(1973)、実に57年ぶりに帰国することができました。74歳になっていました。3年後に亡くなります。『からゆきさん おキクの生涯』は、そうした彼女の77年間の一生をまとめ上げたノンフィクション作品です。


第1章 被差別部落に生まれ


 8人兄弟の末っ子に生まれたおキクの家は、茅ぶきの6畳一間で、外に流し台があるだけの粗末なものでした。3歳で父を、10歳で母を亡くしました。小学校を4年で中退して、姉おキミの働く岡山のござ工場に子守奉公にでます。おキクの人生を決定づけた2つのこと、出自と教育についても考えます。被差別部落民はかつて"穢多(えた)"と呼ばれていましたが、その歴史的考察と、おキクのように読み書きが十分でないことの意味を考えてみます。
おキク74歳の時の手紙
(変体がな)


第2章 からゆきさんに売られ

 姉おキミの結婚話の際に、被差別部落の人々が結婚の折りに味わった苦渋についても触れます。おキクは同じござ工場のおトミという女にうまく言い含められて、神戸から密出国させられてしまいます。大正5年(1916)、おキク17のときです。多くのからゆきさんは船倉に隠れて密航で出て行ったので、その体験談や、1ヵ月かかって着いたシンガッパ(シンガポール)で"せり"にかけられるシーンなどご紹介します。


第3章 クラン20番娼館

 マレーシアのクランにある20番娼館に500円(今の約500万円)で買われたおキクは、その借金を返すために3年間働きます。姉おキミから送ってきた"正信偈(しょうしんげ)"は、唯一の心の支えとなります。モームチェーホフ、シュリーマンなどや漱石、藤村、抱月、碧梧桐や石光真清(まきよ)など、からゆきさんに接した人々の生の声をお伝えします。今、クラン20番娼館はどうなっているのか、私の訪問記もあります。「私は今23歳、10歳の時からここで働いているわ」というレッチミーも登場します。
20番娼館(とりこわされて、今はない)
ジャラン・ジュプン(日本通り)にある
20番娼館(中心あたり)
20番娼館の20を示す番号


第4章 シンガポールでの自由働き

 自由の身になったおキクはシンガポールに出ます。時に20歳。チャンギや日本人街などで稼ぎをします。この約10年間の"自由働き"が、おキクの一番楽しかった時です。恋仲の男との別れもあります。日本のある宮様のお世話をしたこともあります。海外の日本人社会でも根強い部落差別の例を取り上げ、おキクの心の内を察する手だてとします。


第5章 インド人と結婚

 逃れるようにおキクはマレーシアの奥、イポーへ引っ込みます。古川某と内縁結婚するも、2年で別れます。生まれた男の子は2歳で早逝。インドのタミル移民、コサラワンと内縁結婚。おキクの手記によると、「夫は結婚して何年かで外に女を作り、子供もでき、別居」とあるが、関係者にインタヴューして回ると「2人は仲が良かった」と逆の答えが返ってきます。"藪(やぶ)の中"の2人の関係です。私はイポー訪問でラニーを知ります。「今27歳。学校には1日も行ってない。家族のために12でこの仕事を始めたの」
 
インド人コサラワンと結婚


第6章 マレー国籍を取得

 太平洋戦争の始まりと同時に、ほかの在留邦人と一緒におキクもインドへ抑留されます。昭和21年(1946)に釈放されたとき、おキク47歳。義理の息子になるジャラモルティは、医者になるべくインドへ留学、おキクは金の工面(くめん)に難儀な日々が続きます。夫も死去。息子は帰国して医者になり、すぐに結婚。その嫁さんとおキクは気が合わず、思いに沈みます。そうしたおキクの暮らしの様子を、色々な人の口を借りて再現してみます。


第7章 57年ぶりの日本


 70歳を過ぎてから、おキクに3つの出会いが訪れます。それが半世紀ぶりの帰国を可能にしたのです。昭和48年(1973)に日本の土を踏みます。マスコミは大きく報道しました。町営住宅に落ち着き、生まれたふるさとでの生活がまた始まりました。帰化申請して日本人に戻ります。マレーシアに"里帰り"して、まだ残っている老からゆきさんたちに帰国をすすめる話をしたりします。日本を恋しがりながら異国の土となっていった、多くのからゆきさんの物語も織り込んであります。

 
永の別れを惜しむおキク
(クアラルンプール日本人墓地)
<中国新聞社提供             
「部落解放」1973年9月号より転載>


第8章 夫のふるさとインド

 私がおキクの夫コサワランの村を訪ねた記録です。彼の腹違いの弟に会うことができたが、別れの日に彼は帰らぬ旅に立ちました。おキクに会ったことのある数人の老人に、話を聞きました。コサワランのカーストなどにも触れます。次にボンベイに飛びました。広大なレッド・ライト・エリア(赤線地帯)を案内してもらい、現代のからゆきさんの少女たちに会います。別の日にネパールへ。インドや世界各地へ少女達が売られている様子を取材しました。貧困−教育−職業の相関関係が悪い方に循環している現実を、お伝えします。


第9章 絶えないおキクの物語

 おキクは昭和51年(1976)、77歳の生涯を閉じます。その死に対するマスコミの反応や、関係者の感想を集めてみました。人の一生としてこれ以下はないと思わせるような境涯にあってなお、おキクはどのような心持ちで生きていけたのか、探ってみます。からゆきさんという、知れば知るほど不思議な存在に思える人たちのことにも迫ってみます。おキクは亡くなったが、今の世にも第2第3の、いや無数のおキクの物語が、変わらず続いているのはなぜなんでしょうか。


あとがきより

 欧米世界よりアジアの風の心地よさを感じ始めた10数年前、初めて各国に散らばる日本人墓地のからゆきさんの墓と出会った。世界無宿を地でいったからゆきさんたちだが、なぜだか私を捕らえました。
 私はからゆきさんの勉強を始めるには、宮岡謙二の収録した本からだと思って、その3,526冊のリストを入手しました。手伝いの2人と一緒に国会図書館に日参し、200日も通った頃に主な1,000冊や雑誌、新聞に一通り目を通し終えました。毎日少しずつリュックで運んだコピー用紙は天井に届き、コピー代は200万円になりました。
 被差別部落については、300冊程度の書を読み、各地の被差別部落を30ヵ所程訪れ、およそ100人に話を伺った程度の付け焼刃でしかありません。
 取材やインタヴューに出かけたのは、おキクの生まれた広島や島原・天草に4、5回ほど、マレーシア・シンガポールに6回、インドとネパールに各1回ずつでした。
 おぼろげに構想を描きはじめて約10年、本業のかたわらの作業なので、予想もしなかったほどののろい進み具合でした。原稿は6回書き直しました。
 「この人たちは歴史に記録されることは決してないんよ」とおキクは語っているが、ウォーレン教授も書いた、今村昌平監督も撮った、ささやかながら僕も書かせてもらいましたよ、とおキクに言ってやりたいのです。
 1人のからゆきさんの誕生から死までを1冊に綴った書は、私の知る限りでは見当たらないので、あるいはこの拙著が初めてかも知れません。
 非常に多くの方の協力と助言によって本書は完成しました。それらの方々に深く感謝を申し上げます。